青い空。白く大きな入道雲。
打ち寄せる波の音。日光で焼けた砂浜。
ここは海。
太陽が眩しく感じる。楽しげに響く人々のはしゃぎ声がそこら中から響いてくる。
そして極めつけはソースの焦げる匂いと鉄板を叩くコテの音。
ここは海だ。
俺は焼きそばを作っている。作っている。作って……
頭の中で何かがぶちりと切れる音がした。
ここは…海、だ!
「なんで俺はこんなとこで焼きそばを作ってるんだーー!!」

事の始まりは終業式の日の祐樹の持ちかけだった。
「おい直樹、夏休みに何か予定入ってるか?」
「ああ?まぁ、暇と言えば暇だけど…なんだよ」
「アルバイト、しないか?」
「はぁ?」

話の内容は祐樹の叔父が旅館を経営しているらしく、夏に経営の一環として海の家を開くらしい。
それのアルバイトをやってみないか、とのことだった。
「もちろん海の家だから休憩時間には泳いだりできるぞ」
「おお、それはいいな」
「更に、もしも上手く行ったら綺麗な、もしくは可愛い女の子と知り合えるかも」
「なんだと!」
ああ、うん。別に女の子と仲良くなれるという台詞に惹かれたわけじゃないんだ…… 本当ですヨ?
いや、まぁ、彼女の1人も欲しいなー、と思わなかったでもない。
それだけだったんだ。俺は間違ってはいないはずだ。
恋人の1人もいない学生として当然の発想のはずだ。
そして、その申し出を二つ返事で承諾し…たのが大いにまずかった。
世の中、金とダイエットと恋愛にかけては上手い話が無いと相場が決まっているのだ。
俺は三日後に『木暮旅館』とサイドにペイントしてあるマイクロバスに荷物ごと拉致され、気付けば件の旅館に。
恰幅のいい中年の男(木暮の叔父さんらしい)に、がっはっはと笑い声を上げられながら色々言われ、『木暮旅館 海の家』
と背に大きく書かれてある趣味が悪すぎるTシャツを渡され、その日の内に職場となる海の家に放り込まれた。
そしてそこは――戦場だった。
海の家という許容範囲が少ない売店に続々と客、客、客客客客客客客客…
氷を削ったり、シロップをそれにかけたり、インスタントラーメンをぼったくりの値段で売ったり、イカ焼きを作ったり、焼きそばを作ったり
忙しい。死ぬほど忙しい。いや、実際死ぬ。死ぬ。死んでしまう。

俺以外の店員もいた。
しかし、綺麗、もしくは可愛い女の子など一人もおらず、筋肉たくましい角刈りの男が3人という展開は地獄の他の何物でもない。
俺がその道の人間なら大喜びでフラグ立てに全力を傾注したかもしれないが……生憎、俺はノーマルなのでノーセンキューだ。
休憩時間に海水浴をして出会いを探すということもできる…と祐樹は言っていたが、それも嘘だった。
いや、訂正しよう。嘘ではなかった。ただ説明が足りなかっただけだ。
盆と正月と結婚式と葬式とロケットの打ち上げを合わせたような混乱が続く中、休憩になどいけるか?答えはNOだ。
では休憩時間はいつなのか?正解は夜になって全ての業務が終了した後。
ならば、もはや海岸に人がいるわけもなく……まぁ、そうゆうことだ。
休憩があるというのも本当。休憩時間に泳げるというのも本当。ただし「いつ」とは祐樹は言っていない。
……つまりはハメられたのだ。俺は。
怪しげな壺を手練手管で買わされ、真実に気付いた人間のような表情が顔に浮かぶのが解った。

……以上、回想終了。
そんな回想をしながらも健気に業務をこなし続ける自分が恨めしい。
コテが鉄板に当たってカッカッという金属音を発した。
…畜生、みんなみんな滅んじまえ。
そう思って、ふと海の沖合いに目を向けた時、何か目についた。

通常ならそれはあってはならぬ光景。
見間違いじゃないかと思い、目を凝らす。
あれは――人が溺れている!?
周囲を見渡す。
皆能天気そのもの。
駄目だ。誰も気付いていない!
監視員は!?
…どこにもいない!
「くそっ!」
俺が行くしかないじゃないか!
コテを鉄板に投げ捨て走り出す。
周囲にいた人間が俺を奇妙な表情で見たが、気にもならなかった。
走る。走る。走る。
そんなに距離は離れていないのに自分がとてつもなく遅く感じる。
海に飛び込む。
水を必死に掻く。進路上にいた溺れかけていた人は……いない!
沈んだか!?
水中に潜る。さして水深は深くない。せいぜい2mといったとこだ。

いた!
水中に目を瞑り、青い顔をして横たわっている。
手を掴む。必死で引き上げる。狂ったように水を掻く。水面に顔が出た。
海岸についた時はさしたる距離を泳いでもいないはずなのに息が切れた。
苦しいと思いながらも。溺れていた人――女の子の胸元に耳を近付ける。
呼吸音が…しない。呼吸に伴う胸の動きも無い。
これはまずい!
人工呼吸しかない。
遥か昔に学校で習った応急の授業を思い出す。
確か…気道確保をする。そして人工呼吸だ。
彼女の鼻を押さえて、大きく息を吸い込む。
不安が頭をよぎる。大丈夫なのか。正しいのか。これでこの人を助けることができるのか。
頭を振る。考えても仕方が無い。やらなければならない。
唇に唇を合わせる。息を吹き込む。心臓マッサージをする。
これでいいはずだ。正しいはずだ。
頼む。合っててくれ。助かってくれ。この世に応急治療の神様がいるのならば……

それを何回繰り返しただろう。主観的な時間の経過では1時間も経ったように感じられた時――
「げほっ、げ、げほっ」
えづくような声が聞こえ、水が吐き出される。

同時に呼吸が戻った…ようだ。
わぁー、という歓声と拍手の音が聞こえた。
いつの間にか、周囲には野次馬が大量にいた。
余りにも集中していたのでまったく気付かなかったのか。
その頃になってようやく遠くから、ぴーぽーぴーぽーという聞きなれた救急車のサイレンが聞こえてきた。
緊張から解けた俺は力が抜けて、情けなくその場にへたりこんだ。
救急隊員が急ぎ足で来て、担架で彼女を急いで運んでいった。
「なつき!」という悲鳴のような言葉と共に彼女と同年代ぐらいの女の子が救急車に同乗していくのが見えた。
彼女の友達だろうか――ふう、とため息を付き、色々な感慨を抱こうとした瞬間、海の家の店員に捕捉された。
問答無用でその後も働かされた。
やっぱり滅んでしまえと思った。

夜、宿泊施設に宛がわれている祐樹の叔父の経営している旅館の従業員室に敷かれている布団に俺は倒れこんだ。
今日は疲れた……
なんせ、溺れていた女の子を人工呼吸までして助けた――……ってちょっと待て?
よく考えれば、だ。
いやぁ、あの人工呼吸は俺のファーストチッスか
女に比べれば男のファーストチッスなど納豆についてるカラシ未満の価値でしかないけどな。
よく思い出してみれば、結構可愛い子だったなぁ……
……感触思い出しながら寝よ。
電灯から伸びてるヒモを引っ張り、電灯を消した。
おやすみなさい。

そして、まぁ、今日も当然海の家のごとき戦場にいるわけで。
俺は今日も外で焼きそばとか、あと今日は焼きイカも。
結構今更だが、海で焼きそばとか焼きイカってのはどうだろう?
旨いとは思えないのだが。なのに結構売れるのが謎だ。
色々思いながらもどんどん焼き、どんどん売る。
いつの間にか行列すらできている。
どっか他で食えよと叫びたくなるが、そこは我慢した。
つくづく、激しい労働は人の心を荒廃させるなと思う。
精神的疲労をオーバードライブっぽくしつつもひたすら作って売ってしていると、いつのまにか夕方。
水平線に夕陽が沈む。周囲はオレンジ色に染まっている。
やっと今日も終わったか…
最早、定番になった後片付けを行っていると、目の前に人が立ち、影が差した。
「あ、すいません、今日はもう終わってまして――」
そう言いながら顔を上げる。
目の前の人物と目が合った。女の子だった。
…なんか見覚えがある。
しかし、知り合いではない。これは間違いない。
「あ、いや、そうじゃなくて――」
「はい?」
なんだろう?コンビニとか近くにありませんか?とか聞かれるんだろうか?
どうしよう。この辺が地元じゃないから地理とか詳しくないぞ。俺は。

「あのー、この海の家で昨日溺れてた女の子を助けてくれた方、いませんか?」
想定していた問いとは完全に違った。
「えっと…助けたのは俺ですけど……?」
「あ、っと…その溺れてた女の子は私だったんですけど…助けて頂いて、ありがとうございました」
女の子はぺこりと頭を下げた。俺は慌てて顔の前で手を振った。
「いやいや、そんな……別にいいよ。そんなに丁寧にお礼を言わなくても。助けるのは人として当然だしさ」
そこで店の奥の方から「おーい高橋君、そっちは片付いたかー?」という声が聞こえてきた。
やべ、とっとと片付けないと。
「あー、今はちょっと片付けの最中だから少し待っててくれないかな?すぐ終わらせるから」
俺はそう言って手早く片づけを始めた。

15分程で片付けは終わった。
時間は6時をまわっていたけれど、夏だけあって日は長く、まだ空がオレンジ色のままだった。
海の家の前を見渡すと、彼女は砂浜に座っている。
波のざー、という音が絶え間なく響く。
ざくっざくっと砂を踏みしめる音が聞こえたのか、彼女がこちらを振り向いた。
「待ってたんだ」
何も言わずに片づけに没頭してるから帰ったかもしれないと思っていたんだけど
「あ、それもありますけど、少し考え事を」
「考え事?」

「いや、そのー…何かお礼をしようと思ってきたんですけど、そのお礼の内容を考えてなかったことに気付きまして…」
彼女は頬を赤くして恥ずかしそうに言った。
「ははは、いやぁ、いいよ。お礼なんて。ただちょっと泳いだだけで、大したことは全然してないからさ」
「いえいえ、そういうわけにはいかないですよー」
彼女は口に人差し指をつけて、んー、と考え事を始めた。
改めて、目の前の女の子を見た。
身長は…まぁ、平均ぐらいか。160cm前後といったとこだろう。
髪型はストレートのロングで黒髪。茶髪が多いこのご時世においては実に珍しい。黒髪美人ってやつだな。
顔は…可愛い。美人というタイプではないけれど。
まぁ、変な希望は抱かない方が良いさ。
こんな子を彼女にできたら男冥利に尽きると言っても良いが、まずそんなことはないだろうしな。
「んー…何も思いつかないー…」
「いや、いいよいいよ。別に、えーと…」
そういや、この子の名前なんだろう?
聞いてないや。
「あ、私はなつき、です。呼び捨てでいいですよー」
「ん、了解。えーと、で、なつきがそう思ってくれるだけで良いから。だから別にお礼なんて…」
「そうゆうわけにはいかないですよー。えーと…」

「あ、俺は直樹、高橋 直樹って言うんだ」
地面に指で『高橋 直樹』と書いて見せる。
「あ、はい、わかりました… あれ?直樹さんってここが地元じゃないんですか?」
「うん、そうだけど…言ったっけ?」
「いえ、ちょっと言葉の訛りの違いで思ったんですけど…あ、そうだ!」
「ん?」
「私がこの町の観光案内しますよ」
「えー……っとそれは嬉しいけど…」
うーん、断る理由はないけど、時間がなぁ。
なつきは『ぱあっ』という擬音が付きそうな笑顔でこちらを見ている。
…可愛いな…いやいやいや、違うだろ俺。
「俺、この通りバイトで一日中拘束されるから夕方くらいからじゃないと空きないよ?」
「そのくらいで別にいいですよー」
うーん、いいのか。
じゃ、まぁいいか。
「じゃあ、お願いしていいかな?」
「お願いされました」
なつきはにこっと笑った。



こうして忘れられない夏休みは始まった。




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