腹を決めて、上原と話をすることにした。
「・・・一体何だよ?」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・」
上原は肩で息をしている。元々運動能力は高そうだが、そこまでして走ってきたのか・・・・。
見る限り話せそうにないので、数分おいてからもう一度聞くことにした。
そして、上原の呼吸が正常になってきた頃。
「・・・で?用件は一体何だ?」
「はぁっ・・・はぁっ・・・あのさ」
「うむ、恨みつらみをぶつけに来たのだろう」
「・・・・は?」
「さぁ、殺るならとっとと殺れっ!」
もう死ぬ覚悟は出来ている。あとは、こいつの鉄拳制裁を食らうのみだ。
上原の拳が今、俺の顔を・・・
トスッ
顔をかすめ、肩を軽く叩いた。
「・・・え?」
「今までのことは許してあげる。だから・・・だから、これから途中まで私と一緒に帰って」
「え?えぇ?」
頬を桜色にして、うつむきながら話す上原。
突然のことに俺の頭は混乱した。普通に・・・可愛い。しかも、「一緒に帰って」なんて・・・。しかし、
「別に帰ってくれなくてもいいわよ。そしたら、あんたのことずっと恨み続けるから」
この一言で俺は現実に引き戻されてしまった。
一瞬でも可愛いと思った俺が馬鹿だった。俺の頭は本当にどうにかなってしまってたな。
「それで一体どうなのよ?あんた次第よ」
でもまぁ、実際に危害は加えてきそうにないし、このままの関係だと疲れそうだ。
「・・・わかったよ、一緒に帰ってやる」
「え・・・?いいの?」
「何言ってんだよ、自分から言ったんだろ。ずっと恨まれっぱなしなのも嫌だしな」
「・・・ありがと」
口のなかで言葉を押しとどめようとしているみたいな、上原らしからぬ声調だった。
……なんか調子狂うな。
「……んで?」
歩き出しても上原が黙ったままなので、俺から訊いてやる。
「んで、ってなにが?」
「なにが、じゃないっての。なんか用あったんじゃないのか?」
「…………」
視線を強くして俺を睥睨する上原に、条件反射で身構えた。
「来るなら来いッ! 腹か、顔か? それとも脚かッ?! 毎朝走ってるから脚には自信あるぞ!」
身をかがめて、鞄で顔をガードする俺。
やつの鉄拳のかわりに俺に届いたのは、大仰なため息だけだった。
「あんた、馬鹿でしょ」
「失礼だな、お前」
「それはお互いさま」
鞄を眼前に掲げつづける俺を捨てて、上原はさっさと歩き出してしまった。
「お、おい、待てよ」
母親を追い求める迷子みたいに、情けない足取りで追いかけた。
横並びになる。上原の歩調にあわせる。
横顔を窺ってみても、何を考えているのか読みとれない。
「暑いよなぁ……」
沈黙に耐えきれずに呟いても、返事なんてなかった。
なんだ、この居心地の悪さは。
「滝川も変だったし、今日はなんかあれか、そういう日なのか」
どういう日だ。
「……あの子はべつに……関係ないけど」
ようやく上原の表情に変化が生まれて。
「だいたいあんた、あたしをなんだと思ってるわけ? 会えば殴る暴力女?」
片眉をひょいとあげて、俺の心中をはかるような眼つきで俺を睨め上げる。
「そうそう、そんなんじゃないとなぁ。お前はそうじゃないとだめだよな。お前の威圧感に、俺は鞄を持つ手をぶるぶる震わせてな、そんな気持を隠すように強がってみせるんだよ。上原さん怖い……いつ殴られるんだろう……でもここで逃げたら明日倍になって──ぶっ!」
顔面にやつの鞄がクリーンヒットして、俺はもんどり打って倒れた。
「てめぇ! 冗談って言葉知ってんのか!」
上原はあきれたように俺を見おろしている。
「あんたこそ限度って言葉を噛みしめてみたら?」
「くそう……下着見せていきがってんじゃねぇぞ、こんちくちょうめ」
上原は慌てて俺から離れた。
そりゃ、そんな近くにいたら見えるよね。うん。
「なかなかに眼福だった」
打ちつけられた鼻頭をさすって立ちあがると、上原が赤い顔をして俺をにらんでいた。
「そんなに怒るなよ。俺も忘れる。だからお前も忘れろ。これは事故だ。不慮の事故だ。犬に噛まれたとでも思え」
「あんた……」
さっき俺を打擲した鞄を持つ手が、ぷるぷるしている。
「あ、いや、ちょっ、待てよ、冗談だって、ほんとは見えてねーから! 膝のちょっと上までしか見えなかったから!」
現前にある死期をなんとか先延ばしすべく、俺は慌てて言葉を積み重ねる。
ほんとは見たけど。
「……ほんとうでしょうね」
女とは思えない低音にぞくぞくする。
「ほんとうだ。そんなもん見せてくれたって見たくない」
上原の眼つきがさらに険しくなる。
……あれ? なんか間違った?
「お、お前だって、そんなもん見せたくないだろ? 誰もよろこばねーよ」
上原の手の震えが止まる。
……もう一押しか?
「だいたいよ、そんな危険水域ギリギリまでスカート短くしようと──」
「ばかぁーーーーーー!!!」
最後に映ったのは、高速で振り抜かれる鞄。
耳に残ったのは、わざとらしいほどに大きな足音。
……さすがテニス部。いい振りしてるぜ。
上原に打ちのめされた我が身をひきずってなんとか帰宅すると、麻奈が居間のソファにしどけなく横たわっていた。すでに制服は着替えてしまっている。
冷房は全開で、テレビでは芸能ニュースが流れている。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま。……麻奈、なんか怠け者の主婦みたいだな、おまえ」
「えー、そんなことないよぉ」
なんていいながら、横臥したままで眠たそうな眼をしている。
「麻奈、夕飯の材料買ったか?」
「……カレーじゃいや?」
すげぇめんどくさそうだ。
「カレーはいいけど、それだけじゃ俺の腹がもたん」
「もうっ。わがままな兄をもつと妹は苦労するなぁ……おいしょっと」
麻奈は皺にならないようスカートを整え、ソファに座りなおした。中指の腹で目頭をこすって、寝乱れたセミロングの髪を手櫛で梳いてゆく。
大きく伸びをする麻奈を、なんとなく眺めている。
「……な、なに?」
見られているのに気づいた麻奈が、大きくひらけていたその口もとを、慌てて両手で隠した。
「ん……いや、おまえって、けっこうかわいいのな」
あくびしても変な顔に見えないってすごいやつだ。
見場のよいあくび姿を披露する妹への、素直な感想だった……んだけど。
「も、もう……お兄ちゃん、なにいってるの。変なところ見てそんなこといわないでよ」
麻奈さんってば、さっきまで枕にしていたクッションで顔の半分を隠して、上目遣いになってはにかんでらっしゃる。
「……ぁ……うん、ごはん、だよね。麻奈が……あ、私が、か、買い物、行ってくるよ。お兄ちゃんテレビでも見てくつろいでて」
麻奈が自分のことを名前で呼ぶのなんて、ひさしぶりに聞いた。中学にあがるころ、がんばって「私」に変えていたのに。
懐かしさに俺が頬をゆるめていると、麻奈は何を勘違いしたのか、あわてて立ちあがった。
「ごはん、なんでもいいよねっ。いってきます!」
麻奈は俺の横を抜け、玄関まで一目散に。
「麻奈ー、おまえ、財布もったのかー?」
「あっ!」
──おいおい、あわてすぎだよ、麻奈。
1. 麻奈と一緒に買い物に行く
2. 俺が一人で行く
3. 麻奈に買い物に行ってもらって俺は留守番