「麻奈、ちょっと待て。俺も一緒に行く」
「いいよ、お兄ちゃん待ってて。私が買ってくるから」
「いや、でもなんか、麻奈にばっかり任せて、俺が全然やらないのもな。だめ亭主みたいだし」
「だめ亭主なのは前からじゃない」
「…………」
「ひひゃい、ひひゃい! ほっぺらつねんないでよぅ。……いじわる」
「生意気言うから」
「もう……ほっぺた弱いのに。……お兄ちゃん、制服着たまんま行くつもり?」
「いいだろ、べつに。制服は冠婚葬祭で大活躍する正装だぞ」
「お兄ちゃんがいいならいいけど……あ。ねえ、買い物一緒に来てくれるのは嬉しいんだけど、部活行かなくていいの? ほんとはまだ学校なんでしょ?」
「そんなもん知らん」
「また先輩に怒られちゃうよ?」
「代わりに謝っといてくれ」
「なんで私が」
「妹だから」
「理不尽でわがままな兄だなぁ……ああんっ、もう、ほっぺたはやめてよう。愚痴くらいいいじゃない。だいたい、あれだよ、あれ」
「あれってなんだ」
「お兄ちゃん、ほんとに手伝ってくれるんだったら、ちゃんと部活に行って料理上手になってくれたほうが、私としてはすっごぉーーく助かるんだけど」
「俺、麻奈の料理が好きなんだ」
「そんなお世辞でだまされないもん」
「…………」
「そ、そんな、道端に捨てられた野良猫みたいな眼をしても、喜んでごはんつくったりしないもん」
「…………」
「そ……そんな、新生児微笑みたいに無垢な笑顔を装ってみても、母性本能刺戟されないもんっ」
「…………」
「そ……そ……ん〜〜〜〜、もういいっ! 行ってきます!」
「お、おいてくなよぅ」
「お兄ちゃん来ないでいいから!」
──おかげで家を出るのに時間がかかってしまって。
からかいすぎて、へそを曲げてしまった麻奈をなだめながらの買い物は、なかなかに厄介なものだった。
少し目を離していると一人で進んでいってしまうし、わざと俺の嫌いなものばかりを選んでは買い物カゴに放りこんでいくし、精算するときには俺の財布から金を引っこ抜いていくし(金の出所は同じだけど)、帰り道では荷物を全部持たされるしで、まったく、機嫌の悪い妹をもつと兄も苦労するもんだ。
それでも、料理の準備をするころには機嫌もよくなっていて、夕餉の席では始終笑顔で学校の話をしてくれた。
とりあえずは一安心、と。
麻奈より先に風呂をすませて、さっさと自室にひきこもった。
ベッドに寝っ転がり、生乾きの頭を枕にあずける。
開けっ放しの窓からは風がゆるゆると流れ込んでくる。七月の夜風なんて涼しいわけもなく、暑くて辛抱たまらんので冷房を入れた。
滝川翔子。
上原里美。
ぼんやりしていると、二人の名が浮かんだ。
麻奈に構っていて忘れていたけれど、今日の二人はなんだか変だった。
……いや、上原は会って二日目だから、変もくそもないか。上原の“普通”がどんな状態なのかもわからないし。
上原に呼び止められた帰り道。
あいつのことを「かわいい」だなんて、一瞬でも思ってしまった自分。
麻奈との日常をすごしたあとだと、あのときの非日常的な感覚が、現実感のない記憶となって俺の脳裡をたゆたう。
あいつ前の学校ではテニス部だったって言ってたけど、うちのテニス部には入らないのかな。
まだ入ってないから、あんな時間に帰宅してるんだろうし。
それとも俺と同じように幽霊部員とか……。俺じゃあるまいし、入部早々幽霊部員になるタイプでもないか。
よくわからんな。
やたらと噛みついてくるイメージしかなかったから、今日みたいに曖昧な態度を見せられたら、上原のほんとうの姿ってどんなものなのか、わからなくなる。
いや、まあ、しっかり殴り飛ばされた気もするけど。
自分が上原を意識しているのだと気づいて、考えることをやめた。
なにを考えてるんだか、俺。
……早いけどもう寝るか。
いつもいつも麻奈に迷惑かけちゃいけないしな。
冷房のタイマーをセットして。電気を消して。
夜だというのに聞こえてくる、蝉吟に耳を傾けて。
そして意識の片隅にのぼってくる、あいつの顔を、なんとなく思い浮かべて。
寝入ったのは結局、いつもとあんまり変わらない時間だった気がする。