気まずい。そんな空気が俺と麻奈の間に流れていた。
 二人で台所に並んでいるというのに、沈黙。トントンと包丁の規則的な音がするだけだ。
「……なぁ麻奈」
 その沈黙に耐えられなくなって、俺が口を開く。
 あの夜のことは忘れたい。かなり消し去りたい記憶だ。
 なぜって、麻奈が俺の指を舐めるのを見て……一瞬といえど変な気分になったからだ。
「なに、お兄ちゃん?」
「いや、その…」
 妹に対して感じてはいけない感情。それを俺の胸をよぎった。
 心をくすぐられるような、むずがゆい感覚。
「玉葱って、切ると涙が出るのはなんでだろうな?」
 俺は手に持っている玉葱を見ながらそう言った。
 我ながらヒドイ話題だ。完全に場の空気を読んでいないっていうか、この雰囲気とはま逆な展開だ。
 ……まぁそれでもいいか。とりあえずこの気まずい感じをなくさなきゃな。

「ん〜、それは…」
 おっ、なんだなんだ? 真剣に考えてるじゃん。
「きっと、玉葱さんが『切らないでよー』っていう気持ちが乗り移るから! かな?」
「ほ〜、なかなか面白い見解だなぁ」
 俺の思考とはまったく違った考えだ。
 俺ならきっと「玉葱にはそういう成分が入ってるから」って答えただろうなぁー。
「んじゃあ、ちょっと賭けしないか?」
「賭け?」
「おう、俺がこの玉葱を切って、涙が出るか出ないか」
「面白そう! あたし、涙を流す方に賭けるー!」
「甘いな、麻奈。俺は玉葱で涙を流したことのない男だぞ?」
 涙を流したことがないのは本当だ。
 だって玉葱なんて切ったことないからな。涙が出る出ない以前の問題だ。
「じゃあ負けたほうが罰ゲームな」
「いいよ! お兄ちゃん、ぜったい泣いちゃうよ」
「俺が泣く? フハハ、馬鹿にするなよ、妹!」
 ……そしてその結果。
 俺は見事なまでに大号泣。罰ゲームが決定したのだった。

「お兄ちゃん、罰ゲーム!」
「あー、はいはい……わかってるけど、帰ってきてからな」
 くそ、玉葱があんなに強烈だとは思わなかった。まだ少し目がヒリヒリする。
 麻奈は「ざまぁ〜みろぉ」などとはしゃぎ回っている。朝の重たい雰囲気はもう見る影もなかった。
 まぁ麻奈も笑ってるし、罰ゲームくらい良いかな。
「そんなこと言って逃げるつもりなんでしょ」
 麻奈が俺に疑りの目を向ける。
 俺は一つため息をついて、リビングにある時計を指差した。
「時間」
「時間…? って、ああぁ!」
 やっと気がついたか。
 時計の針はすでに八時近くまで迫っている。早くしなければ遅刻だ。
 俺にとっては日常茶飯事的なことだけど、麻奈はマジメだからな。遅刻なんてしたくないだろうに。
「バカー! 何でもっと早く言ってくれないのよぉ!」
「……俺のせいか?」
 そんな俺の言葉は無視され、麻奈はさっさと自分の用意を始めた。
 俺も今日は早く起きれたからな。あんまり遅刻しすぎると、先生たちに怒られちまいそうだ。
 とりあえず早めに朝ご飯を食べて、制服に着替える。そのままバックを持って靴を履いた。
「じゃあ行ってくるぞ」
「あ、うん! ちゃんと鍵持っていってね!」
 麻奈はまだ行く準備ができてないみたいだ。
 女の子の準備には時間がかかるって言うし、俺は先に行くとするか。
 そうして俺は家を出た。空は快晴、気温も高すぎず低すぎず。かなり心地よい一日になりそうだ。

 気持ちのいい朝。自然と歩く調子も早くなる。
 清々しい気分だなぁ。こんな日には良い事が起こりそう。
「気持ち良いなぁ。早起きもしてみるもんだな」
 そう言って俺は大きく伸びをした。最近、学校に遅刻することが多くなった。
 その理由は俺の寝坊だけじゃない。なんだか俺のまわりの奴らに振り回されているような気がする。
「その最たる奴はアイツだな……って、ええぇ!?」
「きゃああぁぁ!」
 場所はあの時の曲がり角。俺と上原が正面衝突をして転んだ場所だ。
 今日は良い事が起こりそう。そんな予感がしていたのに、朝の初っ端からその期待は裏切られた。
「アンタちょっとどこに目ぇつけて…あああああああああああぁぁ!!」
 まるであの時の出来事がリプレイされているみたいだ。
 ぶつかってきた張本人が咥えていたであろう食パンが、汚れたコンクリートの上に安置されていた。
「またお前か…」
 そう呟かずにはいられない。
「私の……パン………許せない」
 ギロッと厳しい視線が俺に向いた。
 上原里美。曲がり角を減速もしないで走ってきて、俺とぶつかった。もちろん俺は歩いていたさ。
 それなのに、まるで全部が俺のせいみたいな目で睨まれても、こっちとしてはどうしようもない。

「ってまたアンタなの!?」
 上原はぶつかったのが俺だと、やっとわかったみたいだ。
 すると上原は地面に落ちたパンを拾い上げると、それを俺の前まで持ってきた。
「どうしてくれるのよ、これ」
「……俺のせいか?」
 本日二度目のこのセリフ。一回目は麻奈に対して言ったものだ。
「そうに決まってるじゃない! 一度ならず二度までも私のパンを無駄にして!」
 それはお前が走ってきたからだろ。
 そう言いたいけど、上原の凄みのある剣幕に迫られて、言うに言えない状況だ。
「アンタのせいで朝ご飯抜きじゃない! もう許さないんだからっ!」
 上原は言いたいことだけを言い放って、さっさと学校へ走っていった。
 取り残される俺。そして目の前にあるパン。
 はぁ、天気と正反対のこの暗い気分、どうしてくれよう。

 学校に着いた。
 時間はまだ大丈夫。一時間目が始まるまで、あと数分くらいの余裕がある。
「やっぱ早起きは気持ち良いね」
 一時間目からしっかりと授業を受けられるっていうのは、生活に張りが出てくる気がする。
 てきとうな生活じゃ得られない充実感が滲み出てくるみたいだ。
「おう、今日は遅刻じゃないな」
 教室に入るやいなや、智也がそう言ってきた。
 ちなみに智也と俺は仲がいいけど、コイツは俺と違ってけっこうマジメだ。
 遅刻はしない、勉強も適度にこなすし、スポーツも万能。しかも顔立ちも上々ときたものだ。正直うらやましいと言うしかない。
「今日は妹がちゃんと起こしてくれたんだ」
「お前、麻奈ちゃんに毎日起こしてもらってるんだろ? 羨ましい奴だね」
「んなことねえよ。まぁ麻奈には世話になってるな」
 智也は俺の家で何度か遊んだことがある。
 その時に麻奈と少し話したらしく、それ以来なにかと麻奈について聞いてきたりする。
「いやー、お節介な妹ってのも萌えるね」
「もえる…?」
「あ、いや、こっちの話だ」
 たまに智也は俺のわからない言葉を使ったりする。
 どんな意味だって聞いても、適当にはぐらかされて話題が終わってしまうのが常だ。
 もえ…? いったいどんな意味なんだろうか?

「っていうかさ、またお前……あの転校生と何かあったのか?」
「なんだよ、突然」
「いや、だって……お前のこと、めっちゃ睨んでるぞ」
 智也がちょいちょいと指をさした。
 その先にいる、まるで鬼の形相のような表情をした上原の姿が。
 まるで射殺されそうなくらい鋭い眼光が飛んでくる。本当にチクチクと針で刺されてるみたいだ。
「あぁ、んと、ちょっとな」
「大変だな。でもあの転校生、顔は可愛いから少し嬉しいんじゃないか?」
 ニヤニヤとした顔で智也が尋ねてきた。
 たしかに他人よりもちょっと……いや、だいぶ可愛いと言えるかもしれない。
 まぁそれは外見だけで、性格はシャレにならないくらい酷いもんだが。
「ぜんぜん。むしろ勘弁してくれって感じだよ」
 まったく……今日は厄日か?
 早いとこ授業終わらないかな…。

 キーンコーンカーンコーン…。
 四時間目の授業が終わった。久しぶりに四時間をまともに受けた気がする。
 まだ居眠りはしていないし、ちゃんとノートも取ってる。充実してるな。
「そういや今日……翔子が来てないな」
 独り言のように呟いた。
 朝からアイツの姿を見ていない。机にもバックはないし、今日は休みだろうか。
 翔子のことを考えると、昨日のことが思い出された。赤面ものだよなぁ、あれ。
「……はぁ」
 ため息しか出ない。今日、翔子に昨日のことを問い詰めるつもりだったけど、来てないんじゃしょうがない。
 それよりもむしろ重要な事態がある。それはきっともうすぐ起こるに違いない。
「待ちに待ったお弁当の時間〜…」
 ……ほら、来た。
「今日の朝のぶん、ちゃんと弁償してよね」
「つまり俺に奢れと?」
「それ以外になんて聞こえるの?」
 あれって、俺は悪くないだろ。そう目で訴えてもぜんぜんダメだ。
 ちっくしょー……やっぱり奢ってやるしかないのか…?
「さあ早く行きましょ。パン、売り切れちゃうじゃない」
「俺もついていくのか?」
「当然じゃない。私、購買部の場所知らないもの」
 勘弁してくれ。俺だって早くメシが食べたいんだ。
 ちなみに今日は麻奈の手作りだ。麻奈の料理は美味しいから、かなり楽しみにしている。
「アンタお弁当あるの? じゃあ持ってきなさいよ」
「え? なんで?」
「いいからっ! ほら、はやくしなさいよっ」
 ずるずると引っ張られるようにして、購買部へ向かう。
 今月のお金、ピンチなんだけどな…。

「これとこれ! あとこれも!」
 上原を購買部に連れて行って、そこで好きなものを買わせたのだが。
 奴の辞書には遠慮という言葉がないらしい。目に付いた物、おいしそうなパンやおにぎりを所構わず手に取っていた。
「ねえ、アンタの好きなパンってなに?」
「俺が好きなのは焼そばパンだな……って、それも買うつもりか?」
 悪いの? というような目付きで俺を睨んでくる。
 上原の腕の中には数多くの食べ物が握られていた。まさか、それ全部買う気じゃ…。
「これください!」
 ああ、やっちゃったよ…。
 金足りるかな……あ、ギリギリ足りる。そうして俺のお金はすり抜けるようにして消えていった。
「ゴチになります」
「……」
 上原はご機嫌といった様子。それとは対照的に俺の気分は沈んでいった。
 財布には小銭が少し。とうぜん札なんてものがあるわけない。はぁ、と一つため息をつく。
「ね、高橋」
「…なんだよ」
 さすがの俺も少しイラついてきた。
 ちょっと冷たい声で応答してみる。
「これからご飯でしょ? お弁当食べるのに、おススメの場所とかってある?」

 屋上。空は朝から変わらずきれいな青色を映し出している。
 風が頬を撫でる。このまま寝転がって、睡眠時間としゃれ込みたい気分だ。
「へえー……こんな場所があるんだ」
 そう言いながら屋上の扉をくぐったのは、上原。
 その腕の中には盛りだくさんのパンやおにぎりの山。すべて俺の実費だ。
 財布の中は寒くなるし、しかも上原と一緒にメシを食べるハメになってしまった。
「よっこらしょっと。ほら、アンタも座りなよ」
「ちょ、お前……」
 上原が屋上に座り込む。その拍子に見えてしまった。
 その、なんていうか、白いパンツが。
「ん、なによ」
「だから、その、パンツ…」
「え…」
 やっと気がついたようだ。慌ててスカートを押さえつけている。
 俺も目のやり場を探すように周りをキョロキョロと視線を泳がせた。
「見えた?」
「……ちょっと」
「変態」
「変態じゃねーよ! お前が俺に見せてきたんだろ!」
「うるさいわね! この変態、エッチ、ドスケベ!!」
 しばらくギャアギャアと二人でわめきあった。
 しかも知らないうちにチャイムまで鳴っていたらしい。
 そんなこととは露知らず、俺と上原は屋上で大声を出しあっていた。